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言霊よもやま話 Vol.8 「浦島太郎は秦の始皇帝が日本に遣わした使者“徐福”だった

原典:『世界維新への進発』(小笠原孝次 著)
編集:新谷 喜輪子 / 監修:杉山 彰

「春の日の、霞める時に、住吉の、岸に出で居て、釣舟 の遠らふ見れば、古の事ぞ念(おも)ほゆる」(万葉集、浦島子の歌)。の浜辺の興謝(よさ)の浜辺の浦島太郎は亀の背に乗って竜宮城(綿津見神の宮)を訪れた。

この話は多分に歴史的要素が含まれている。興謝は丹後の地名だが地理的に取らず、言葉の上で考えて、サを接尾語にすると、ヨは夜、夜見国、月読国、常夜の国、四方津(よもつ(与母都))国すなわち外国の事である。日本を日の国、表の国とすると、夜の国、月の国は裏(浦)の国である。ここでは中国のことで、浦島太郎とは中国の思想の正系の流れを汲んだ人という程の意である。  

「河図を出し、洛書を出す」(易経)とあるが数をもって表した処の範疇が古代中国の思想の基本である。数理 をもって占うことを亀卜(きぼく)という。亀は甕(みか(かめ))であって、河図、洛書も初めは粘土盤(素焼)に描かれた数字として教伝された。ある時、斯うした数である亀の原理はどこから来て、その実体は何であるかと考えた浦島太郎は、その淵源を質ねて亀に乗って海の底の竜宮城を訪れた。 

海とは産霊(うみ)の謎で、この世界の生成化育の現象の奥底にその原理の殿堂がある。その場所と原理が何であるか、遠い太古の世界人は知っていた。龍宮(たつのみや)のタツとは性(たつ)、すなわち万有の姓である。その姓が由って来るところを易は乾兌離震巽坎艮坤の八卦をもって示し、八卦の淵源 を言霊は、ヒチシキミリイニの八音をもって運用する。

 すなわち八性(やさが)の勾玉である。この玉(霊)、宝珠のある 所が竜宮城である…(中略)…。秦の始皇帝が六国を併せて中原を掌握し、その社稷(しゃしょく)を二世よりもって万世に伝えんと意図した。そのためにあ る時始皇帝は寵臣の方士徐福に童男童女数千人を与え、船を儀して東海に浮かんで、彼の五山に有るといわ れる不老不死の仙丹を齎(もらら)さんことを命じた。徐福は日本の熊野に上陸した。孝霊天皇の御(ぎょう)の事である。 

竜宮には乙姫が住んで居た。浦島太郎の訪問を大い に歓迎して、日に夜を次いでこれを饗した。浦島は夢心 地で、うかうかと三年の月日を竜宮城で過ごしてしまった。 龍宮(たつのみや)、性(たち)の宮、言性(ことさが)の宮は仏教で言えば摩尼宝珠(まにほうじゅ(言霊))の宮殿である。乙姫(おとひめ)は音秘(おとひめ)の謎であって、生命意志の原理を言語の原理として把持し、それを秘め蔵(かく)しているという義である。即ち竜宮とは日本の事であり、狭く言え ば日本の皇室であり、生身の乙姫は即ち日本の天皇である。この国を中国人は東海の姫氏国(きしこく)とも呼んだ。姫はまた秘の謎である。其処の五山とはすなわち松島、天の橋立、高千穂、興津清見潟(おきつきよみがた)、富士山の五ヶ所であって、其処に住む神人が練る不老不死の仙薬とは天壌無窮(てんじょうむきゅう)、 万世一系の生命原理すなわち言霊布斗麻邇の事であ る。秦の始皇帝は自らの王位を万世に伝えんが為に此 の原理を東海の姫氏国に求めたのであった…(中略)…。

浦島太郎の徐福を迎えた竜宮城の日本皇室では彼を喜び迎えたどころか、実は大慌てにあわてた大騒動になった。彼のために供宴が催されて美酒佳肴が盛られ、 美姫が舞った。この歓迎は喜びからではなくして恐怖のためであった。当時世界最強の国家である秦が日本皇室存立の根拠であり、しかも爾後(じご)三千年間は人類の前に封印して置かなければならぬその不老不死の仙薬を要求したのである。朝廷の供宴は徐福をごまかして追い 帰すための御馳走政策であった。

斯うして浦島太郎は三年も流連(いつづけ)た後に、いよいよ故郷 へ帰ることとなった。乙姫は竜宮城の形身として玉手箱を与えた。彼は再び亀の背に乗り、波をくぐって帰って行った。徐福はこの様にして幾年かを日本で過ごして後、故郷へ帰ったわけである。物語では、この時、乙姫と浦島が尽きぬ名残を惜しんだことになっているが、まるきり反対の事実を悟らせるための皮肉である。 

秦朝から遣わされた恐るべき使者がようやく帰ることとなったので、竜宮の人々はやれやれとほっと一息を吐いた。浦島の後ろ姿に鯛も比良目(ひらめ)も鰹も鯖も、そっと赤い舌を出して見送ったことだったろう。玉手箱を玉匣(玉櫛筍(たまくしげ))という。又は埴土(はに)箱ともいう。 これは埴土(粘土盤)に記した玉(言霊、麻邇字(まにな))を納めた箱である。日本の立太子式に「まな壺の儀」というのがある。ヘブライにも「黄金のマナ壺」という神宝がある。 すべて同じ意義のものである…(中略…。)

 玉くしげは「蓋(ふた)」とか「明ける」の枕言葉であって、これを開けることが問題である。奈良、平安の皇朝文学時代、これを開けるということは男女関係の肉体の蓋を開けることに転化した。優雅な表現である。しかし本来の玉手箱の意義は言霊を納めた箱であって、それを開ければその中に人類の生命意志の原律、天壌無窮、万世一系 の道の原理が入っている。開けてはならない。これを閉ざすための神武維新であり、これを封印する為の崇神朝 の政策であった。その中味を知っていてもその後二千年の間は露わに語ることを禁じられていた。聖徳太子も弘法も道真もそして最後に日蓮も仏教や儒教に事よせて暗示しただけであった。乙姫が浦島に与えた玉手箱は中味の摩邇字を抜いた空っぽの箱だけだった。

浦島は故郷に着いたが、竜宮城で暮らした三年は実は三百年だった。故郷の浜辺には元の住家もなく知人も居なかった。心細さに開けるなと乙姫から厳しく戒められた玉手箱の蓋を開けたら、白い煙が立ち昇っただけで、中には何も入っていなかった。そして浦島太郎は忽ちに 白髪の老人になってしまった…(中略)…。 

浦島太郎の徐福来朝の時から今日まで転(うた)た二千五百 年、玉匣(たまくしげ)の事も、不老不死の仙薬のことも、天壌無窮、 万世一系の原理のことも、中国人はもとより、日本人さえも が今は全く忘れ去った。しかしこの時天津日嗣の経綸の予定の時が来て、その昔の玉手箱の蓋が我らの手によって開かれて、秘められていた言霊布斗麻邇が全世界に公開され、その生命の主体性、創造意志の公理定 理が普く全人類の上に操作施行されることとなった。

(つづく)

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【小笠原孝次(おがさわらこうじ)略歴】
1903年 東京都にて生誕。
1922年 東京商科大学(現在の一橋大学)にて、
吹田順助氏よりドイツ文学、ドイツ哲学を学ぶ。
1924年 一灯園の西田天香氏に師事し托鉢奉仕を学ぶ。
1932年 元海軍大佐、矢野祐太郎氏および矢野シン氏と共に
『神霊密書』(神霊正典)を編纂。
1933年 大本教の行者、西原敬昌氏の下、テレパシー、鎮魂の修業を行う。
1936年 陸軍少佐、山越明將氏が主催する秘密結社「明生会」の門下生となる。明治天皇、昭憲皇太后が宮中で研究していた「言霊学」について学ぶ。
1954年 「皇学研究所」を設立。
1961年 「日本開顕同盟」(発起人:葦津珍彦氏、岡本天明氏ほか)のメンバーとして活動。
1963年 「ヘブライ研究会」を設立。
1965年 「ヘブライ研究会」を「第三文明会」に発展。
1975年 「言霊学」の継承者となる七沢賢治(当時、大学院生)と出会う。
1981年 「布斗麻邇の法」を封印するため七沢賢治に「言霊神社」創設を命ずる。
七沢賢治との連盟で山梨県甲府市に「言霊神社」創設する。
1982年 79歳にて他界。

【著書】
『第三文明への通路』(第三文明会 1964年)
『無門関解義』(第三文明会 1967年)
『歎異抄講義』(第三文明会 1968年)
『言霊百神』(東洋館出版社 1969年)
『大祓祝詞講義』(第三文明会 1970年)
『世界維新への進発』(第三文明会 1975年)
『言霊精義』(第三文明会 1977年)
『言霊開眼』(第三文明会 1980年)


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