
創世樹 Episode 3
執筆:ラボラトリオ研究員 畑野 慶
再び
気を失っていた夫が目を覚ますと、そこは家の中でした。
お供に預けた荷物も、扇子や小箱も側にあり、穏やかな日の光が窓から射し込んでいました。がたがたと物音がして、奥から現れたのは、髭面の尊い方でした。
「おお、起きたか。相変わらずのんびりしておるの。妻はまたもや先に行ってしまったぞ」
首を傾げると、今の状況を説明されました。
しくじって振り出しに戻ってしまった、とのことで、どちらかの箱の中身に落ち度があった可能性を指摘されました。
「きっと妻の方じゃろうなあ。慌てんでもいいのに、ばたばた集めて回ったんじゃろう。だから落ち着くように注意したんじゃ。
するとな、大きく深呼吸して、慎重に集めるような仕草をしたんじゃが、結局慌てて出ていったぞ」
そう言って呵々大笑する尊い方に、夫は憮然としました。
「次は大丈夫じゃ。誰でも失敗はある。大変だと思うが、今一度挑戦するのじゃ」
用意してくれた軽食を口にして、再出立の準備を整えました。
畳んで置いてあった衣服はなくなっていました。妻も同じ思いです。
彼女の衣服を携えて、今度はあれこれ背負わず、身軽に玄関の扉を開けた途端、眼前に悶え苦しむ者がいました。
「さては、あの果実を飲み込んだな。しばらくすれば治る。ほうっておくのじゃ」
背後からそう言われても、ほうっておけず、狼狽えていると、尊い方が外に出てきて、湖の巨木を指差しました。
「まだ食うてはならぬ。あの器に光を灯すのは、お前たち夫婦じゃ。はよ出立せよ」
じきに分かることと理解して頷き、また左回りの道程を歩き出しました。
前回の経験を活かしながら、順調に響きを集めて回りました。
T、K、M、H、R、N、Y、S。
そう直感で識別した八つを順不同に、最後の一つを小箱に収めた際、気が抜けたのか、山道で足を滑らせて、大きく転倒しました。
抱きかかえて守った小箱は、蓋が開いてしまうこともなく無事でしたが、右足首を痛めて、患部が赤紫色に腫れ上がりました。
置いてきた荷物をふと思い出したのは、その中に捻挫を癒す特効薬があったからです。
しばらく歩けそうになく、呆然と座り込んでいると、通りがかりの女が手を差し伸べてくれました。
治療に用いる具体的なものを持ち合わせず、患部に華奢な手を当てているだけでしたが、その優しさを嬉しく思いました。
何も話さないので、彼女も話せないのだろうと思った矢先、これで大丈夫という意味の、癖の強い言葉を耳にしました。
患部の腫れは綺麗に治まり、痛みも取り除かれていました。
跳ね上がって喜んでも支障なく、手を取って感謝の思いを全身で伝えると、彼女は面映ゆい表情でとつとつと話しました。
「もしかして、私の言葉が分かるのでしょうか?」
分かっている反応を示していたからです。
大きく頷くと、彼女は驚きました。
広く話されていたのはとうに昔、今では家族にしか通じない言葉だと言いました。
「そのせいで町を追い出されました。寂しい日々を送っています。
しかも今日は、家族が出払ってしまい、独りなのです。どうか私の話し相手になってくれませんか?」
差し色
そう遠くないと聞いて、彼女の家まで迂回することにしました。
小川を渡り、見晴らしの良い場所に出ると、つづら折りの道を登り始めて、遠くないという感覚の相違を懸念しましたが、覚悟していたよりも近く、小休止の誘いに応じました。
解放感のある縁側で、聞き役として留まるうちに、今夜一晩いてほしいと言われた為、それは妻との大事な約束があって出来ないと、懸命に伝えました。
「そうでしたか。ここまで遠回りさせてしまって申し訳ない思いです。
せっかく来て頂いたのですから、この辺りにしか咲かない珍しい花をお持ちください。きっと奥様が喜ばれるでしょう」
家の周りから青い花を摘んで渡してくれました。
後ろ髪を引かれる思いで、悲しげな表情に背を向けると、待ちわびる妻の姿を思い描いて、足早に立ち去りました。風がやや強く吹き始めました。
湖畔に戻ると、深紅の果実が一つ、小さく打ち寄せる波に乗って流れ着いていました。
片手で掴める大きさの、真球に近いそれは、あまりに固くて、食べるとしたら飲み込む他にありませんでした。
懐にして先へ進み、前回腰を掛けて休んだ辺りを意識しました。
あの力を貸してくれた家族と再会出来る気がしていたからですが、それらしき石が、行けども行けども見つからず、風景にも違和感がありました。
ふと思ったのは、前回と逆向きではないか、ということです。尊い方が言った、振り出しとは、元の家ではなかったのかもしれないと、思い込みを疑いました。
暮れなずむ様子で停滞して、仄かに暗くなり、白い夜を迎えた頃、行く先の灯りが見えてきて、その前で大きく手を振る者がいました。
来た道のような違和感が、駆け寄ってくる姿にもありましたが、それは一瞬の戸惑いで、満面の笑みを浮かべました。
妻はいつもの妻だと思いました。
わざとらしく膨れた、遅いと言いたげな表情に、後ろで隠していた青い花を差し出すと、とても喜ばれました。
そして、互いの小箱を向かい合わせて、いざ!と、またもや妻の声にならない掛け声で、開けた途端、二つとも中から白い煙が噴出しました。
右回り
妻は振り出しの日差しを顔に受けて、その眩しさに起こされました。
夫の姿はなく、尊い方がつくねんと座っていました。
「彼は先に行ったんじゃ。今度こそ自分の方が先に着くと言っておった。二度の失敗で、その理由が分かったんじゃ。
お前さんの掛け声で開けておるだろう?それは駄目じゃ。夫の方から声を掛けて、お前さんが合わせよ」
窓辺の一輪挿しには、あの青い花が飾られていました。生き生きと咲いているように見えました。
持ってゆくかと聞かれましたが、これ以上の旅は花が可哀想だと思い、首を横に振りました。
「お互いの息を合わせる為に、お前さんは一呼吸置いて行動するんじゃ。夫には逆のことを言うておいたぞ」
助言を胸に三度目の出立。夫とは逆の右回りです。
これで最後にする決意でした。
慣れた手付きで扇子を操り、見分けた色に、“A、I、E、O、U”、と名を当てたのは、それが適切だと感じたからです。
黄でも青でも緑でもない、特殊な色で認識する五種類の音。
なぜか足りない感覚があり、手際良くすべてを小箱に収めた後も、振り当てた名を胸の内で反芻しました。
小箱を揺すると、中で動いているような、隙間を感じましたが、やはり抜け落ちはなかった為、ゆっくり歩くことにして、何か困っている者がいれば、手助けしたいと思っていました。
過去二回とも、出会った者に助けられながら、先を急ぐ余り恩返し出来ず、悔いが残っていました。
すると、道端でさめざめと泣いている男がいました。女であればすぐのところ、一旦通り過ぎてから引き換えして、垂れ下がる肩を優しく叩きました。
「あなたに何が分かる。どうせこの言葉も通じやしない」
耳に手を当てて幾度か頷き、聞き取れていると伝えました。
「なんと、通じる者がいるとは。話せないようではありますが、これは驚くべきこと。私の家族ですら忘れてしまった言葉なのですから」
悲嘆に耳を傾けました。
彼はある時旅に出て、久しぶりに戻ると、母も子も別の言葉を話していたそうです。
「今日ついに家を追い出されました。言葉が通じない私のせいで、諍いが絶えない日々でした。
もう私には何もありません。着ている物もこのざまです。でも、少しのつもりで旅に出た私が悪いのです」
ひどい薄衣の格好を思い遣り、携えていた夫の衣服を差し出しました。夫も理解してくれると信じました。
そして、それよりも強く信じたのは、この混乱を収める国産みの力です。男は跪いて衣服を受け取りました。
「本当に心の美しい方ですね。目を見れば分かります。強い力を秘めていることも分かります。あなたはきっと救世主だ。
進むこの先に、大きな希望があるのでしょう。私は祈るしかありません。どうかご無事で」
頭を下げて見送る男、延いてはこの世界を、早く救わなければならないと、足取りがせっかちに戻りましたが、途中で、同じ失敗を繰り返しかねないことに気付いて、一呼吸の迂回をしてみました。
辺りに目を向けながら歩いていると、珍しいあの青い花が山道の脇で咲いていました。
水かが見
足腰の強い疲労を感じたのは、湖畔に戻る前後です。
三度目だからか、ゆっくり歩くと逆に疲れるのかと、色々考えました。
それでもなんとか、あと少しのところまで来た時、まだ十分明るい湖の様子を見て、過去二回の夫の鈍間ぶりを痛感して笑いました。
逆の個性に惹かれ合い、互いに補って生きてきたので、腹は立ちませんでした。
ふと見つけたのは、細波のまにまに漂う深紅の一点です。
見え隠れしながら、少しずつ浅瀬に寄ってきた、その果実との距離が、膝下を濡らすだけで届きそうになると、突然、風と波が静かに収まりました。
足の裾を捲り上げて、凪いだ湖面にかがみました。
映った自分自身に驚愕。
顔は皺ばみ、頭は白髪交じりで、老いを示していたのです。
果実を掴んだ手は、これまでのように水を弾いていませんでした。
老いを知らなかった目は、己が外見に無頓着で、映さず見られる四肢の変化すらも、その時に気付きました。
(つづく)
←創生樹 Episode2はこちらです
創生樹 Episode4はこちらです→
・・・・・・・・・・
【畑野 慶 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。そこでの経験が、表現することの探求に発展し、言葉の美について考えるようになる。言霊学の第一人者である七沢代表との出会いは、運命的に前述の劇団を通じてのものであり、自然と代表から教えを受けるようになる。現在、neten株式会社所属。