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明け遣らぬ Episode 3

執筆:ラボラトリオ研究員  畑野 慶

研鑽

うつ伏せに倒れた状態で目を覚ますと、そこは湖の岸辺でした。太陽の位置から知り得たのは、然程時間が経っていないことと、潜った場所からは遠く離れていること。未開の対岸でした。

到底泳いで渡れる距離ではなく、元いた湖の彼方に戻るには、鬱然たる獣道を命がけで縫ってゆくしかありませんでした。現状への困惑と心細さで、少年は為す術もなく泣き出しました。

すると後ろから声を掛けられます。耳にしたことがない美しい響きの言葉でした。目にしたことがない顔立ちは奇妙に映り、女のようで女ではない、やはり別種の何かでした。みなもを歩く姿は長身の男のように見えた為、その存在は複数いると分かりました。

そしてもう一つ、自分たちは裸だと分かったのです。それまで無意識でした。意識したところで羞恥心にはなりませんでした。

衣服を纏った者は、穏やかな微笑みを浮かべて、どうやら付いてくるように言っていました。怯えながらも縋るしかなく、少年は長い黒髪の後ろ姿を追って山に入りました。小鳥のさえずりに出迎えられて、なぜか獰猛な獣が襲い掛かってくる気配はありませんでした。


迎え入れられたのは、壁に動植物が描かれた洞窟の中です。着衣の者たちが火を囲んで、激しく議論を交わしていました。

少年は警戒して距離を置き、それをただ聞いて、次第に胸を熱くさせました。語彙が著しく豊富で、繊細な心の動きも表現していると察したからです。この言葉で話せれば、分かり合えないもどかしさが軽減されて、複雑な虚構も生み出せると思いました。果てしなく輝かしい未来を創造できると思いました。そして水上を歩くことは不可能で、言葉を学び取ることは可能との直感が働きます。

身振り手振りでこの場に留まりたいと伝えました。歓迎の意を示されて、焼いた料理を分け与えられました。共同生活の始まりです。


若さと情熱が吸収力を高めました。然程月日を掛けず、少年は正しく聞き取れる耳を獲得して、その言葉を使って思考するようになります。ですが、話すことは異なりました。反復しているうちに、どうしても発音できない言葉があると気づいて、身体的な差異を探ります。


男に似た方の喉元には、丸みを帯びた突き出しがありました。自分たちの種にはないもので、崇高な丸石が引っかかっているようにも見えました。何かと問い掛けましたが、明確な答えを得られず、翻って自分も、例え言葉を上手く話せても、体の部位を詳しく説明できないと思いました。臍が何の為にあるのか分からないのです。


喉元の突き出しをころころ動かしながら、彼らは虚実不明確な物語を大抵過去にあった事実として、情緒豊かに幾つも語りました。少年は聞くたびに胸を躍らせましたが、ある時ぼんやりと、過去もすべて虚構ではないかと考えました。過去にあった事実は本当に事実なのか疑問をもったのです。

事実だと信じているだけならば、虚構の未来と同じです。今この瞬間しか存在しないということです。そして一つの仮説を打ち立てました。万物は言葉で作られたのではないかと。


それを興奮気味に、ひどく滞りながら語りました。できない発音を口の動きで伝えようとしました。着衣の者たちは、辛抱強く真剣に、目と耳で聞き取ろうとして、議論も交わしてくれました。

褒められたのは、深く考えていること。加えて議論とは別の、毎朝日の出に手を合わせていること。洗練されていて、最も“人”に近い存在と言われました。

同時に、“神”の存在も語られました。少年はすぐに気づきます。この着衣の者たちが、人か神のどちらかであると。口にするのは憚られました。もしも神だとすれば、その存在を口にした瞬間、目の前から消え去るだろうと思ったからです。


湖に潜った頃の暑さが遠ざかると、美しい夕日は涙を誘い、懐郷の念に打たれました。死んだと思われているに違いありませんでした。流麗な発音を決して諦めませんでしたが、対岸の故郷に戻りたいと口にします。すると悲しげな顔が並び、一つの物語を告げられます。心して聞いてほしいとの前置きが、心をざわつかせました。


神話

これはある湖の周辺で起こったこと・・・

湖は神々が地上と行き来する数少ない扉でした。いつの日からか、二本の足で好奇心旺盛に歩き回る者たちが、そのほとりで暮らし始めて、火を正しく使いこなすだけでなく、大自然に畏敬の念を示すなど、文化的な習慣を身に付けていました。ですが、用いる言葉が頼りなく、度々諍いを生みました。

それを見かねた神々は、真の言葉を授けることに決めて、見込みのある者を選び出しました。大事なものを授けるにあたり、きちんと教育する為です。そして湖の中に呼び込んで連れ出す際に、つい出来心で、この丸い世界の外を見せてやろうとしたのです。

するとうっかり戻る時間を誤りました。連れ出した時よりも、凡そ二百年ほど先の未来でした。選ばれた者はそれに気づかず、今日のままだと思い込んでいました。くしくも同じ季節の同じ時間帯で、景色にも目を引く変化がなかったからです。


飛び越したその期間、選ばれし者の同胞は受難の道をたどります。突として天敵が現れたのです。それは全身に鱗を纏った細長い動物で、歩けない小さな足があり、見えない翼で空を滑らかに飛びました。非常に賢く、好戦的かつ繁殖力旺盛で、急速に勢力を拡大しました。歩く者と、飛ぶ者の、食物連鎖の頂点を巡る争いになったのです。


歩く者が火を操り優勢だった、ある日の夜明け前、湖の中央部から、みなもに赤い光をじんわりと広げて、まん丸い小さな玉が昇りました。燦々たる血の塊のようにも火の玉のようにも見えるそれを、飛ぶ者が一匹、素早い低空飛行で捕らえると、躊躇なく飲み込みました。

耐え難い苦しみの後に、真の言葉をもたらす種であり、器を試す禁断の果実でもありました。本来受け取るべき者は、その時代にいません。神々の二度目の失態です。言わなくても伝わっているはずと、連携を怠ったのです。


形勢は逆転します。言葉による進化は、それ以前と比すれば一瞬でした。話せる者が、飛ぶ者の王になり、言葉を操れる子孫を増やしました。口から飛び出す長い舌は、饒舌を示すようでした。言葉によって共有した未来を次々に実現してゆきます。

口で扱えるようになった火を粗暴に噴き出して、歩く者たちを仄暗い山奥へ追いやります。完膚なきまでに、叩きのめしただけでは気が済まず、彼らを根絶やしにする計画を立てました。


ある神が警告を発します。湖を影で覆い隠す巨大な姿で立ち現れて、これ以上の攻撃を与えたら、話すことも飛ぶこともできない姿に変えてしまうと。


飛ぶ者の間で持たれた話し合いは、言葉少なに議論せず、少数派の意見を黙殺するもので、とどのつまり、重大な警告に従いませんでした。禁断の甘さに酔いしれて、圧倒する力を得た慢心が極まり、計画通りの愚行を犯します。


飛ぶ者は、ばたばたと地に落ちて、這いずり回る矮小な者に変えられました。舌先に罰の象徴たる切り込みを入れられて、話すことも火を噴き出すことも、やがて考えることもできなくなりました。翼と言葉の消失によって、少しずつ知能が衰えたのです。


歩く者たちの、どうにか逃げ延びた残党は、極少数でした。天敵がいなくなった後も怯えて暮らしていました。尚も文化的な習慣を失わない彼らは、現れた神に希望を授けられました。それは遠い未来に、真の言葉を持ち帰る存在です。

信じて待ち続けます。神から薫陶を受けた、人へと導く者を。


東雲

聞き終えた少年は、瞼を閉じて小さく息を吐きました。これは真の言葉を得た者、或いは今後得る者への教訓の物語だと思いました。虚実をどう切り分けて判断するかは自分次第。すべて虚構かもしれません。いずれにしても最後に示された、未来への希望を信じました。

上手く話せずに苦しんでいる経験も、後の世に伝えなければならないと使命を感じて、出てくる言葉はくぐもったまま、明確に帰郷の意志を伝えました。明日の夜明け前に道を案内すると約束してくれました。

そして神を意識しながら、着衣の者たちと、最後の議論を別れの時まで続けました。繰り返しになる教訓も授けられました。舌は矛、という言葉です。諸刃の剣であることと、それが何かを説明され、先の物語と重ね合わせて心に留めました。


来た時と同じ長い黒髪の、手火を翳す後ろ姿に先導されました。途中で振り返った美しい顔にどきりとして、当初は奇妙に見えていたことを思い出しました。往路と異なったのは、色づき始めた木々が仰け反って湖までの道をまっすぐ開いたことです。


東の稜線の辺りが白んで、湖はまだ黒々と、眠っているように静かでした。さざ波の音も耳に届かず、目を凝らして近づきます。

爽涼たる空気の中、見渡す限りのみなもが結氷していました。水ではなく星空を、或いは遠い別世界を封じ込めるように、青白い光の粒が点々と奥底に散らばっていました。

今日だけはこの上を歩いて渡れると伝えられて、足を踏み入れると、冷たくもなければ割れる気配もない、固く分厚い透明な氷でした。

目指す先の、対岸との半ばには、ぼんやりと赤い光が見えました。背後には寂しそうに笑う顔があり、思わず手を差しのべました。

見つめ合ったまま応じない一瞬の間。自身の立場を考えてのことと理解した上で、共に、急いで走り出しました。その足はほどよく跳ね返る氷に推進力を与えられました。飛ぶような速さです。


そしてたどり着いたのは、赤々と光る日の出づる場所。手を合わせて跪く彼こそが、神に選ばれし最初の人です。

人類は夜明けを迎えました。

← 明け遣らぬ Episode 2はこちら

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【畑野 慶 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。そこでの経験が、表現することの探求に発展し、言葉の美について考えるようになる。言霊学の第一人者である七沢代表との出会いは、運命的に前述の劇団を通じてのものであり、自然と代表から教えを受けるようになる。現在、neten株式会社所属。




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