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『貫之集』にみる平安の世界 巻一・一から三二迄の選

執筆:ラボラトリオ研究員 七沢 嶺


紀貫之は平安時代に活躍した歌人である。身分は決して恵まれているとはいえないものであったが、歌人として卓越した才能を発揮した。天皇より古今和歌集の撰者に任命され、和歌のみならず序文の執筆も担当し、また多くの貴族より屏風絵の歌を依頼される等、職業歌人としての生涯は輝かしいものであった。

私が数ある歌人のなかで、紀貫之を選び執筆している理由は好みの問題だけではない。短詩型文学は、論理的な説明からもっとも遠いところに成り立つ文学形式であるのだが、言葉の織り方に氏独特の論理があるという点に意義を見出すことができる。言葉の力を数倍にも高めるような「曲芸」と形容して良い織り方である。それでは文学的な詩情に乏しいかというとそうではなく、「設計」された美といったところである。古今和歌集仮名序で貫之自身が「人の心を種として―」という点に反するのではないかと解釈することもできるが、屏風絵や代作の依頼が多い氏にとって自己の感情をそのまま表現するわけにはいかなかったのではないだろうか。

以下に、紀貫之の短歌をいくつか紹介したい。大意は、専門家の注釈をもとに執筆した。引用元は、田中喜美春、平沢竜介、菊池靖彦著、久保田淳監修「和歌文学大系 貫之集・躬恒集・友則集・忠岑集(明治書院)」である。解説は私の主観が入るため参考程度にお読みくだされば幸いである。

二月、初牛、稲荷詣でしたる所
ひとりのみわが越えなくに稲荷山春の霞の立ちかくすらん
(貫之集四)

大意:私ひとりのみが願をかけに「意が成る」といわれる稲荷山(いなりやま)を越えるわけではないのに、どうして春の霞が覆い隠すのだろうか。
解説:願をかけにいくので、意が成る山つまり稲荷山というわけである。機知に富んだ表現である。現代の短詩型文学では技術に偏り過ぎている点を指摘されるが、当時は求められていた歌風である。景としては、稲荷山へ願をかけにいく大勢の人々がみえてくる。春の陽気と相まって活気溢れる空気感である。春の霞にまるで意志でもあるかのように詠んでおり、邪魔者とはいえ霞への心通った対話も感じさせる。

六月、鵜飼
篝火のかげしるければうば玉の夜川の底は水も燃えけり
(貫之集一〇)

大意:篝火の火がよく燃えているので、真暗な夜の川の底にまるで火が燃えているように影が映っていることであるよ。
解説:鵜飼とは、篝火の灯りと鵜を使って魚をとる漁法のことである。「うば玉の」は夜にかかる枕詞である。水面に火の影が映っている様子を、水底が燃えているとしている。夜川は池と異なり、自然の荒々しさがあるため、夜川の底という言葉が歌全体に力強さと深みを与えている。篝火の激しさと夜川の深さは響き合っているだろう。鵜飼といえば鵜に注目しがちであるが、本歌のような視点は秀逸である。また、漁師の研ぎ澄まされた気息が真に迫ってくるようである。私事であるが、パローレ内の記事「火の人と水の人」内の最終節は、本歌より着想を得た。火と水を統合できる表現が、まさに水面の篝火だったのである。

八月、駒迎へ
逢坂の関の清水にかげ見えて今やひくらん望月の駒
(貫之集一四)

大意:逢坂の関の湧き水に満月が映っており、その満月のようにはっきりとみえる駒迎えの馬は今引かれているだろうか。
解説:駒迎へとは、諸国から献上される馬を逢坂の関まで迎えにいく行事のことである。逢坂の関にある湧き水に満月の影がみえており、その影を馬の姿に転じている。長野県の望月町の駒迎えであるから、望月(満月)であり、欠けることなく姿がはっきりとみえる様子も込められている。月というと夜を連想するが、本歌は昼間の景を詠んだ歌である。山々の濃く深い緑が果てしなく広がる雄大な景である。そのなかに人々や馬の息づかいが感じられる。山、清水、月、馬、人が一首のなかで違和感なく溶け合っている。

十二月、仏名
年のうちにつもれる罪はかきくらし降る白雪とともに消なん
(貫之集二二)

大意:年内に、今年の罪穢れを、空を暗くするほどに降りしきる雪とともに消えてほしいものだ。
解説:仏名とは十二月十九日から三日間、諸仏の名を唱え一年間の罪障消滅を祈る法会のことである。雪が積もる様子を罪が積もると見立てている。雪は古より殊に美しい対象として詠まれてきた。それは白く清らかな見た目や優雅に舞い落ちてくる様の美しさのみならず、形而上の「はかなさ」に見いだすことができるだろう。古事記や神道においては、罪穢れを川水に流すという考えがある。あしきものを水に流す感覚は日本人であれば何の違和感もないはずである。雪は水の一形相である。師走、雪がこんこんと降り積もるなか諸仏の名が響き渡っている。その邪念のない厳かな響きはどこまでも届いていくようである。本歌は人々、社会の罪穢れの多さも感じさせ、その消滅を願うと同時にまた自己自身の襟を正す思いを喚起させてくれる。

河のほとりに紅葉ある所
水底に影しうつれば紅葉葉の色も深くや成まさるらん
(貫之集二六)

大意:深い水の底に紅葉の姿が映っているので、ほとりにある紅葉にも色の濃さが移っているのだろうか。
解説:篝火の歌同様に、水に映る景を詠んでいる。河水の深さと、色の濃さを響かせており、紅葉の色がより一層鮮やかに瑞々しく感じられるのである。「深く」の一語により、紅葉と水を結合し、その美しさを際立たせている。河の水量の豊かさは、自然や人々の暮らしの豊かさを連想させる。実際の景においては、紅葉葉が水面に落ちて浮いていると考えられ、その葉が直接的に水に色を移すという一般的な考えに終始せずに、虚実の対称性に見出している。水面の虚像と紅葉の実像の、虚実の対称性が文学的な奥行きを創り出しているといえるだろう。

山の紅葉しぐれたる所
足引の山かきくらししぐるれど紅葉は猶ぞ照まさりける
(貫之集二七)

大意:山全体を暗くするほどに雨が降っているけれど、紅葉はなおも、よりいっそうの光を放っているのだなあ。
解説:「足引の」は山を導く枕詞である。古来、「時雨(しぐれ)」が草木を紅葉させると考えられていた。「しぐれ」の「くれ」と「紅(くれない)」の「くれ」に因ると考えられている。雨による「暗さ」と葉を輝かせる「明るさ」の時雨の妙を表現している。雨粒にゆれる紅葉や雨音が聞こえてくるようである。山の精粋な空気感も伝わってくる。実生活の上では、雨は人を悩ませる自然現象のひとつであるが、歌に昇華されたことで万物の心まで洗い流すような清らかさを含んでいる。「猶ぞ照まさり」と実景では光がないにも関わらず、そこに光があると断定しており、筆者の紅葉に対する信用は揺るぎないものとなっている。

山の峡たな引わたる白雲は遠き桜の見ゆるなりけり(貫之集三二)

大意:山の間にたなびいている白雲は遠い場所の桜がみえているのだなあ。
解説:雪を桜に見立てることはよく知られているが、本歌は桜を白雲とみているのである。遠くに山々が連なっている。そこにたなびく雲は春の光をうけて白く輝いている。まるで雲雀が翔び出してくるような神秘的な美しさがある。よくみれば、桜であったという筆者の驚きが本歌の要諦であろう。平明な一首のなかに春の長閑な佳景が定型に収まっており、和歌の本筋という風格である。私事であるが、私は俳句から文学に親しみはじめたので、定型かつ「けり」と座りのよい歌が好みである。俳句の切れ味と和歌の柔らかさの両方があるように感じるのである。


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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。

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