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明治天皇御製にみる明治二十九年の桜

執筆:ラボラトリオ研究員 七沢 嶺

三月は、冬の厳しさから開放される季節である。心弾むとは言い過ぎかもしれないが、前向きになれる情趣はある。しかし、花粉症や黄砂、新年度への切り替え等、不安なことも幾分あるかもしれない。

天皇御製とは天皇の詠む短歌のことである。時代の指導者である天皇の言葉は、国民を鼓舞する力があると私は感じている。歴史書をみると、明治二十九年は、日清戦争の直後であり、戦果においては破竹の勢いであった。一方で、国民の生活は苦しく貧しいものであった。戦時下特有の不穏な空気も漂っていたと考えられる。

その時代とわれわれの生きる現代は状況が大きく異なるが、天皇御製に励まされる点・学ぶべき点はあると思い執筆した。以下に紹介する御製は、国誉めの自然詠であり、直接的に時世を詠むものではない。但し、国の安寧を祈る力が底流していることは強調しておきたい。私の大意・解釈は誤りもあるかもしれないため参考程度にお読みくだされば幸いである。

簾外春月

をすのとにいでて花みる人かげもおぼろにうつる春のよの月

大意:小簾(すだれ)の外へ出て、桜をみる人々もおぼろげにみえる。この春の夜に月が出ている。

おぼろに映るのは、春の夜の月のみならず、桜をみる人々である。春の月光という幻想的で柔らかな情趣が、まるで霞を導いているようである。
人々が簾の外に出て桜と月を愛でているのであるから、冴返りのない夜、過ごしやすい陽気であると想像できる。
簾、花、人、朧、月と力の強い言葉(季節の言葉として確固たる位置を占める言葉)が多く並ぶが、落ち着いた空気感がある。

霞中花

春がすみたちなかくしそ九重の内外へだてぬ花のさかりを

大意:春の霞よ、立ち隠さないでおくれ。都の内も外も隔てないほどの桜の盛りを。

霞とは朝夕に視界を遮るように漂う微小な水蒸気である。
現代において、霧はよく経験するが、それとは異なり、春の情趣を含む柔らかなものである。九重(ここのえ)は、宮中や皇居のある都を意味する。そこを隔てないほどに咲き満ちている豊かな桜がみえ、霞が覆い隠そうとしても隠せないほどなのである。
あえて「春がすみたちなかくしそ」と自然に問いかけるところに、愛情を感じとることができる。霞は桜を隠す邪魔者ではなく、より一層、桜の美を引き立てている。

庭前花

吹く風ものどかなる世の春まちてわが庭桜さきそめにけり

大意:吹く風ものどかである時代の春を待ち、我が庭園の桜は咲き初めていることであるなあ。

私はこの御製より、明治天皇の憂いを感じる。
風は目に見えないが、肌では確かに感じることができるように、ひたひたと迫る戦争の陰と不気味さを暗示しているようである。この年は日清戦争後であり、この数年後、日露戦争へ突入していく。
庭の桜が咲き初めている様が平和の予祝であり、敬虔な祈りではないだろうか。

静見花

よものうみ波をさまりてこの春は心のどかに花を見るかな

大意:四方の海の波は収まり、今年の春は心のどかに桜をみるのだなあ。

この御製も、戦争の陰がさしているようにみえる。
四方の海という壮大な視点に立ち、日本と海外との関わりを暗示している。この年は波が静まり、心のどかに桜を愛でるのであるが、それはいつまでも続かないのである。
前書き「静見花」にあるように、花見の「静」が尊く、現代に生きる私のような平和に埋没した意識を押し上げてくれる歌である。

対花言志

散りやすきうらみはいはじいく春もかはらでにほへ山ざくら花

大意:世間に広まりやすい恨みは言うまいと、これから何回も訪れる春に、変わることなく美しく咲いておくれよ、山桜。

桜へ自己の志を託した宣言である。
恨みとは何であろうか。私は、先の御製に引き続き、他国との関係性に注目しがちである。「にほへ」と命令形であり、強い意志を感じる。
自己を山桜に投影して、自己自身をも鼓舞しているようである。私自身も顧み、襟を正す思いである。

落花風

たますだれかかぐる窓の朝風にわたどのかけてちる桜かな

大意:簾を引き揚げる朝の風に、殿舎への渡り廊下遥か上空を飛びながら散る桜であるなあ。

玉簾(たますだれ)とは簾の美称である。
簾、窓の近景から、渡り廊下をかけるように散る桜の遠景に転換している。朝の清々しい空気感のもと、玉簾、窓、風、渡り廊下、桜と溢れんばかりに美しい言葉が置かれている。
一般的には、詠む対象が多くなるほど焦点が霞んでしまい、推敲することになるのだが、本御製はそのように感じさせず、立ち現われる景の美しさは群を抜いているのではないだろうか。

明治天皇のみた桜と、今われわれのみている桜は同じであろうか。物質的に豊かな時代となり、桜の景観も鑑賞の仕方も幾分変わったのではないかと思う。
しかし、桜も人も、その精神は代々継承されており、器は違えど中身は同じと考えている。折口信夫著「霊魂の話」を引用すれば、身体としての器に「たま」つまり「神」が宿るのである。それを掴むひとつの手法が短歌であり、皆様が天皇御製より感じ取ることができれば幸いである。

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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。

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