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命の誕生

執筆:ラボラトリオ研究員 七沢 嶺

黄昏は空に余韻を残し、満月が煌々と母なる大地を照らしている。今宵も蛙は生命の歌を響かせる。伊邪那岐命が伊邪那美命に「あなにやしえをとめ」と詠んだように生類は相聞歌を詠う。田植えを控えた水田には鏡のように水が張られている。水面に映った満月は静謐な美しさを湛えている。月光は山川草木を鎮めながらその高度をゆっくりと上げてゆく。

命をかけて命を産む。母とは真の英傑であり、人類の進むべき道を照らす光である。その精神、地に構え天を貫く大樹の如くである。出産は物質主義の視座に立てば出産の一語にて片付けられてしまうかもしれないが、文学・哲学的にみれば其々唯一無二の神話である。

初春麗日、ひとりの女性は純白の袴を身に纏い、恭しく三方を掲げ石畳に歩を進めてゆく。新たな生命を宿す大きく膨らむそのお腹は、まるで玉のようである。懐妊の告知より、体は母となるべく順応し、野に咲く白菊のような凛とした清らかさを漂わせる。門前にて一礼し、祝殿へ入ってゆく。外壁一面に張り巡らされた鏡は太陽の光を跳躍させ、天地を遍く映し出す。早朝の山を包み込むような清明なる空気が天から地へまた地から天へと循環する。四方に植えられた榊は甲斐国の山々と呼応するかのように、そのいろを静かに発する。

火打ち石を自己に打ち身心を清める。祝殿の内と外は全く異なる時空間である。座して自己の魂は鎮まり、背筋は伸び、天地を貫く柱がその体の中心に立つ。祝詞が奏上される。彼女の発する質朴なる風韻を秘めるその声は、祝殿を突き抜け、青く美しい此の地球を一周し背中へ届く。音波の次元を超えた光である。体の細胞ひとつひとつをふるわせ、最適な遺伝子を呼び醒ます光である。魂はふるえ磨かれ真の玉となる。彼女のお腹に宿る生命は羊水の海に包まれながらその光をうける。この飛躍は神事を日々経験した者のみに感得されるものだろうか。目に見えない働きを真直ぐに感受する経験は揺るぎない真実である。もしそれを妄想と考えることは知性を欠いた知識のみの高慢である。慢心せずに生きるということの本義がここにある。

彼女は毎日続けた。朝な夕なに祝詞を挙げ、頭を垂れた。雲ひとつない中天に満月が煌々と輝く令和二年五月七日の長女誕生まで続けられた。出産日時は、神事における神託と合致しており、すべて予定通りに事が進んだ。初産にも関わらず信じられないほどに円滑であり、満月の夜に珊瑚が一斉に産卵するように、大自然の運行と寸分違わない出産であった。

祝子(はふりこ)と命名された。一年前、七沢真樹子と私は結魂式を祝殿にて挙げ、魂の結びをおこなった。父・七沢賢治は哲学者であると同時に白川神道「おみち」における審神者である。ある朝の神事における神託は命名の神のもとに授かった名である。私は桜子(さくらこ)薫子(かおるこ)というような古式ゆかしい名前を望んでいたため、私たちの魂の結びの起源でもある「祝」の字を冠せられたことは身に余る光栄であった。古より名は体を表すといわれるように、日本文化を心より感受し、公を言祝ぐ女性になってほしい。祝子の生きようとする力、母となる真樹子の高潔な精神、両親の愛、そして皆様のご支援により、祝子誕生という神事が成就されたと確信している。「おみち」なくして今この瞬間の一切はないのである。

白川学館門人の皆様、neten株式会社の皆様、ラボラトリオ株式会社の皆様、出産に関わられた医療者の皆様、読者の皆様に心より感謝申し上げます。そして何より、単身遠い地において出産を成し遂げた真樹子に最大限の敬意と感謝の意を表します。


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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。

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