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月下の里

執筆:ラボラトリオ研究員 七沢 嶺


嗚呼、この時世に夜空を眺めて思索に耽ることは、果たして正しいことなのだろうか。なにか後ろめたい心持ちがする。理論は殊に重要だが、実践なき理論は机上の空論に過ぎない。山や海の向こう側では感染症で苦しむ人がいるのだろう。その人の最期は安らかだったのだろうか。この世に生まれる苦しみもあれば、亡くなる苦しみもある。無常とは理解していても、いざその時が来てみれば平静を保つことができるのか私にはわからない。

かつてとある哲学者は、人は死を確信してから真の人生が始まる、というようなことをいった。けだし、十年先もきっと生きているという確信なくして、どうして希望を抱き生きていけるのだろう。残りの人生を自覚することは真におこなうべきことを明確にするが、その人の心に平穏をもたらすとは限らない。死を理解することと、受け入れることは同じではない。天才が創造し、凡人が注釈する。凡人である私は注釈し、理解することしか能わない。ひとつの星が煌々として西の夜空に座している。あの星もいつかは光を失うときが来るのだろうか。

嗚呼、冷たい。もう晩春だというのに冷たい風が私を貫く。咄嗟にしゃがみ込む。目の前の池に指をいれてみる。思ったよりも温かい。田螺が角を出している。大小様々水底に貼り付き、藻を食べているのか、休んでいるのか―それともなにかを考えているのだろうか。斜に伸びる殻の螺旋回転が私のほうを向いている。一生をこの水底で平穏に過ごすのだろうか。そういえば今日の昼間、池に白鷺が来ていたことを思い出した。水面は何くわぬ顔で月光を湛えている。

わっと咄嗟に足を挙げた。足元の湿った土には蛞蝓と団子虫が沢山蠢いている。踏みつけないように靴底に土を感じながらしばしの間眺めた。昼間は隠れていて、夜になると出てくるようだ。蛞蝓も団子虫も大小様々、赤子に違いない幼いものも混じっている。蛞蝓といえども、赤子は可愛らしい。団子虫の赤子は殻の色も薄い気がする。大人になると殻が厚くなり、その内を隠すようになるのだろうか。その小さき者は自身の親を理解しているのか大きい団子虫の後をついていく。と思ったら、その限りでもないらしい。

私は明確な解を得られぬまま家路を目指す。

嗚呼、相変わらずひとつの星が煌々として西の夜空に座している。

なめくぢに雲の中より露のこゑ  飯田龍太
かがやきて田螺の水は田の沖ヘ  山口青邨
足出して生けるしるしをだんご虫  高澤良一
よく眠る夢の枯野が青むまで  金子兜太
つひに吾も枯野の遠き樹となるか  野見山朱鳥
身はたとえバベルの野辺に死するとも
    伝え置かなむタカマハラナヤサ  小笠原孝次


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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。

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