対称性通信と文学
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対称性通信と文学

執筆:ラボラトリオ研究員  七沢 嶺

私は変わり者であるから、誰からも理解されないのだろうか。私はこの宇宙にいながら、また異なる隔離された宇宙にいるような気さえしてきた。類は友を呼ぶとはいうが、私にはお互いを支え合う友もいないのだろうか。そのような負の連環を重い足を引きずりながら巡っているとき、枯野に春雨がゆっくりと沁み込むように、遠くから歌声が聞こえてきた。誰の声かわからない。ただ、憔悴した私の心を包み込むように、暖かく懐かしい響きであった。刹那、私は故郷を思い出した。天に連なる山々、めだかの泳ぐ川。菜の花が一面に広がる畑。雨後の土の匂い。東屋のひなびた匂いは私の心に平穏をもたらした—。私の宇宙は、私が考えているよりもずっと暖かく開かれたものであったらしい。私と外界の間に生ずる「違和感」「差」は不思議と、暗く複雑な隘路から抜け出す道を照らしているようであった。その道の先には、仮説の証明という偉業が光り輝いていた。
(架空の学者のとある回想録)

宇宙際タイヒミュラー理論を応用しABC予想を証明した望月新一教授の偉業は、ラボラトリオ研究員であり数学研究者でもある磯部氏のご説明のとおりである。

私は数学が苦手であり、難しい数式はわからないが、「心で理解する」ことは可能である。どのような理論・公理にも人の血は通っているはずである。一見、無機質な数式による証明にも、数学者の目指す解に対する「熱く静かな思い」は込められている。また、数学も文学も、論理構造という点においては全くの同質である。難しい数式や盲目的な苦手意識により、自ら遠ざけてしまうことは勿体ないことである。氏の証明についてすべてを理解しようとするのではなく、まずは「対称性通信」の心を感得することが重要であると考えている。

私は優しさとお節介の狭間に漂いながら、以下に「対称性通信」について、私なりの言葉で述べていきたい。加藤文元著『宇宙と宇宙をつなぐ数学』は難題への理解を大幅に助けてくれた。心より感謝を申し上げたい。また、最後に「対称性通信」の考え方は俳句や短歌等の文化と通底するものがあると提案する。

前提の知識として、数学の「宇宙」とはなにかについて以下に述べる。

氏の主張における「宇宙」とは一般的に想像されうる宇宙とは異なる。とある公理(証明する必要のない根源的な真理)を満たすもの同士を集めていき、それらの集合がひとつの宇宙をつくる。また他の公理を満たすもの同士を集めていく。そうするとまたひとつ宇宙ができる。

なぜそのような面倒な操作を繰り返し、複数の宇宙を設けるかというと、同じ宇宙ですべてを扱うとすぐに矛盾が生じるからである。つまり、公理が満たされないのである。その「悩み」を解消するひとつの手法として、望月教授の新理論(宇宙際タイヒミュラー理論の応用等)が役に立つのである。

「対称性通信」について、稚拙な例えであるが、私の眼前にうぐいす色の餡を纏った「お団子」があるとする(いわゆる、ずんだ団子である)。そして、その「事実」を、遠く離れた友人に伝えねばならないとする。ただし、伝達方法は二文字以内の言葉に限定されているとする。そこで私はしかたないので「団子」という二文字を送る(通信)ことにした。それを受け取った友人は、「団子」という言葉から琥珀色のしょうゆ餡を纏った「みたらし団子」を想像(復元)した。しかも、それは一本の竹櫛に貫かれた三連玉の団子であった。

両者の間ではすでに「対称性通信」に似たことは行われている。私がひとつの宇宙、友人がまた異なるひとつの宇宙である。両者の知識・信念(公理)は共通している点もあれば、異なっているところもあるだろう。「団子」という曖昧な表現には、「みたらし団子」「ずんだ団子」「ごま団子」「きな粉団子」と様々な団子が含まれる。玉数も三ではなく、小ぶりな五玉であるかもしれない。また、串にささっていないかもしれない。この「曖昧さ」がABC予想における壁「加算と乗算」を越えるために役に立つ。曖昧であればあるほどフレキシブルである反面、精度は落ち、両者間の「差(団子の誤解)」は大きくなる。もし、伝える情報を「団子」ではなく二文字以上の「うぐいす色の団子」とできたのならば、精度は高まり「差」は減少する。そして、私と友人の間にある「差」を定量化できたならば、この通信の全体を確かに「把握」できたことになる。

以上の個人趣味に満ちた例えは、専門家より叱責をうけるだろう。なぜならば、数学的「対称性」を考慮していないからである。そのうえ、氏独自の数学理論や楕円曲線の定理など多くの点が抜けているからである。それらは私の知識と理解力では到底述べることはできない。お団子の比喩で言いたいことは、「モノ→情報→(対称性通信)→情報→モノ」の翻訳と復元を行うことで、相容れない世界同士の通信が可能になるということである。それにより生じる「差」は、数学においては数式に、文学においては詩情(ポエジー)になるのである。私なりの拙い文学の心で理解するとおおよそこのようなところである。なぜ詩情と結びつくかは、最後に名句を引用して結論としたい。

来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり  水原秋櫻子

文学は、読者の存在によりはじめて完成する。本句より、どのような景をみるだろうか。私は、馬酔木(あしび)が立体的に咲き誇る野に、夕日に限りなく近い春の日が射し入り、その景をみながら、今まで歩んできた人生の感慨にふける氏の姿がみえてくる。上句の「来しかたや」は、道中の物質的な次元のみならず、人生という氏の過去が立ち上がってくるのである。

私はこのように感じたが、その感じ方は鑑賞者の数だけあるだろう。ただし、おおよその感動つまり鑑賞の軸がぶれないのは氏の句に普遍性があるからだ。数学に換言すれば「公理」である。もし、個人というひとりの人間をひとつの宇宙と考えた場合、地上には現在七十七億の宇宙が存在することになる。各人に共通する価値観もあれば異なるところもあり、同一の宇宙をともにする仲間もいるだろう。数学に換言すれば「類」である。

先の対称性通信に倣うとすれば、とある俳句(文学)を要として、全宇宙(全人類)の通信は可能である。各人の感性や知識等に起因する復元されるべき景や心の「差」は、体験談や感想文といった形で十分に「定量化」可能である。言葉は数式と異なり「曖昧」であるという一方向的な印象―社会通念は的を得ていないのではないか。リテラルというモノにおいては、曖昧さがあるゆえに各人の通信が容易になり文学性も生まれるのであるが、各人の心の底より湧き上がる声はゆるぎない真実(公理、数式)である。なぜならば、対話により各人との差を理解し、共感し、ときに内省することができるからである。

我々は、個人・同類としてそれぞれの宇宙に属しながらも、あらゆる媒体による対話(通信)を通じて、人類、全宇宙をともにする仲間として成立するのではないだろうか。氏の柔軟で奇抜な発想は、人生のあらゆる局面で活用できると感じている。

以上の私個人の考え方は、根拠もなく文学を特別視する我田引水の傾きがあるだろう。望月新一教授、加藤文元氏の偉業に泥を塗るような行為になってはならない。文学好きの私が、強引に接点を見出したかったという願望に他ならない。そして、私の主張に笑うべき蒙失があることは心よりお詫び申し上げたい。

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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。



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