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文学理論「フォルマリズム」と短詩型文学

執筆:ラボラトリオ研究員  七沢 嶺


君は日々、熱心に勉強し、「確かな」審美眼を養っている。しかし、人をみて、句をみていない。偉大なる紀貫之や正岡子規が詠む詩歌であるから「良い」ものなのだろうか。ときに、作者と「作品」は切り離されることも重要である。テクストのみから得られる情報に注目してみたらどうだろうか。


(架空の文学者から私への助言)

小説や詩のみならず、俳句や短歌という文学を文学たらしめるものは何であるか。筆者の背景や前提知識なくして、十分な鑑賞を遂げたといえるのだろうか。

たとえば、ある詩歌を読むとき、(近い例でいえば私と詩人・猪早氏の以下のやり取りのように)作者の意図しないことが多々ある。

曲折』 にみる詩の力
春の馬』 にみる詩性

文学とはおおよそ、作者に還元されない意味が混ざった状態であり、フランスの哲学者ロラン・バルト氏の言葉を借りれば「作者の死」である。この考え方は、文学理論のひとつであるロシア・フォルマリズム(形式主義)に影響を与えている。

フォルマリズムとは、文章の形式(フォルム)に、文学を文学たらしめているものをみる考え方である。詩歌の背景に注目せずに、そのテクストのみに見出すのである。たとえば、「あの人がいきなりあんなことをいうから少しびっくりした」という日常的な口語文を「文学」に昇華させるには、「彼の言葉はまるで泉に一石を投じたかのように、私の心にさざ波を立てたのであった」といった具合である。

演出を加えすぎではないかと指摘されそうであるが、そのような状況であるとお含みおき願いたい。後者の表現は、読者にとって異質であると感じるのではないだろうか。日常生活の会話において、その度に「今のあなたの言葉は、私の心の泉に」等と言っていたら相手は困惑し、円滑な社会生活は営むことはできないだろう。しかし、文章としてはいかにも文学らしい表現であると感じるのではないだろうか。

つまり、「非日常的」な表現は、「文学らしさ」を生むということである。フォルマリズムという考え方は、文学を文学たらしめるものを、非日常的な表現(形式)であるとしており、旧ソ連の文芸評論家であるシクロフスキー氏はその「日常から非日常への変換」を「異化作用」と呼んだのである。

その点において、万葉集をはじめとする古典は、現代人にとって「既に」異化されており、紀貫之の歌が、花鳥風月を詠んでいるということのみならず、平安時代の言葉という我々の日常言語とは異なる点から、より一層の詩情(ポエジー)を感じるといえるのである。

それでは、詩情というものは、「異化」という働きのみによるものなのか、と考えねばならない。読者に驚きや感動を与える働きは、単なる「形式」なのだろうか。

私は、形式もそれ以外のことも影響すると考えている。なぜならば、「非日常」というものは時代により変化することは明らかである上に、殊に短詩型文学の世界においては、作者や時代背景なしに鑑賞することは、すべてを語りうるほどの音数を許されていないからである。俳句では五七五というわずか十七音である。

とはいうものの、私はフォルマリズムを完全に否定する立場ではない。冒頭に記した一節のように、文学鑑賞の焦点が、背景ばかりにあたり、テクストそのものをしっかりみないという過ちは起こりうるのである。ちなみに、テクストとは一般的に、文章の背景にあるものを排した文字情報のことをいう。もともとはtexture織物であり、筆者の意図するもの・しないものが織られたものであるとされた。

また、令和というインターネット隆盛の社会においては、情報に「信用」という背景が必然的に求められる。殊にプログラマーという仕事のひとつは、ウェブという大海から、目的を達成するために最適なライブラリ(特定の仕事をコンピューターにさせることのできる既に完成された命令文の塊)を見つけて来ることである。

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熟練の技術者の話によると、納期三か月の仕事でも、首尾よくみつかれば大幅な短縮ということもあるそうだ。つまり、技術者は常に情報を探す必要に駆られており、自然と、社会的に信用のある技術者を背景としている情報を求めてゆくのである。

これは、一般社会にまで拡大し、悪い言い方をすれば、権威と結びついた情報を目指すということであり、「騙される」可能性も考えられる。であるから、プログラマーは基礎となる学習を徹底し(文学でいえばテクストをしっかりみる)、効率化するためにある程度の「権威」「信用」というもの(文学でいえば筆者の背景など)を見極めているのである。

したがって、私のいいたいことは、文学を文学たらしめるものは、フォルマリズムの一部でもあり、筆者やその時代背景でもある、ということである。前者は、文学の鑑賞において、背景ばかりに着目せずにテクストをみる、ということである。後者は、時代とともに「非日常」も変遷するため、また、短詩型文学ではその文字数から語り尽くせないため、テクストのみならず背景もみる、ということである。

私は、確かな根拠に基づいた答えを出していないが、「人をみて、句をみていない」という教訓は、今後の文学への態度をよりよくするものであると思っている。文学の垣根を越えて、情報あふれる現代社会に生きる皆様の参考になれば幸いである。


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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。

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