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傘を持った日

執筆:ラボラトリオ研究員  畑野 慶


春に折り畳み傘とは、実に女々しい発想である。リスク管理?いやいや、男なら濡れて参ろうではないか。
しかし、病院へ恩師の見舞いとなれば、事情は異なる。手ぶらが常の小粋な私とはいえ、くたっとした黒い鞄に傘を入れた。天気予報は曇のち雨。午後からの降水確率は六十パーセントである。

昼前に家を出た。道中はおろか、駅の周辺ですら閑散としていて、嘗てないほどの不景気である。ぱらぱらと行き交う人々は、互いに警戒しながら距離を取っている。私は何やら睨みつけられているように感じた。鼻口を覆い隠していないからか。電車に乗る際でいいだろうと思っていたが、鞄の中から洗い立ての布マスクを取り出した。出来る限り家で過ごすようにとアナウンスが流れた。電光掲示板は昨日の感染者数を繰り返し伝えている。ウイルスそのものよりも、その脅威を煽り立てる情報こそがウイルスであるように思えた。

駅を利用するたびに立ち寄る売店は開いていた。ペットボトルのお茶だけを買うつもりだったが、春キャベツとベーコンのサンドイッチに目が留まり、衝動的に買ってしまった。店員がお茶と共に白いビニール袋に入れてくれた。受け渡しは暖簾のように下がる透明なシートを挟んでのことである。時計を見ると、乗る予定の電車は三分後に出発する。のんびり食べている時間はなかった。

出発間際にも関わらず、乗った車両には誰もいなかった。各駅停車の鈍行である。ボックス席もあるのだが、線路方向の長椅子に側窓を背にして座った。スマートフォンがひょうきんな電子音を発して、受信したメッセージに目を落とした。病院に着いた友人からで、中に入れないとのこと。ウイルスを持ち込ませないようにしているわけだ。嘆息を漏らすと、発車ベルが鳴った。きゃいきゃい騒ぎながらマスクを付けない二人の女の子が駆け込んできた。手を大きく横に開いて。セーフのポーズである。男の子に混じってボールを追いかけていそうな振る舞いである。小学校五六年だろうか。服装も女の子らしさは微塵もない。どちらも大きなスポーツバッグを肩から下げている。電車が動き出して、それをどすんと床に下ろすと、あろうことか私の横に座った。一人分の距離があったが、尻を浮かせてもう一人分離れた。すると目が合って、人懐っこく笑い掛けられた。彼女が着ているパーカーはほんのり橙色が混ざった黄色である。子どもとはいえ、どうにもこうにも野暮ったい。私は目を背けた。通り過ぎる見慣れた景色からも。しばらくして浅い眠りに落ちた。がたんごとんと揺られながら。

目を覚ました瞬間、黄色いパーカーを着た女の子がびくっと仰け反った。手には白いビニール袋を持っている。彼女はえへへと笑い、その中からサンドイッチを取り出して、「食べてもいい?」と訊いてきた。春キャベツとベーコンのあれである。信じられないことである。一体どういう教育を受けてきたのか。顔をしげしげ見ると、異邦人の匂いがした。親の出自はアジアのどこかに違いない。ふいに差別意識がもたげて、やれやれと首を横に振った。返事もしなかった。すると、二人の女の子は躊躇いがちに見合わせて・・・

結局、封を開けた。二人で分け合って食べ始めた。汚らしく。食べ方もきちんと教育されていない。何か言ってやろうと視線を向けた。慌てて食べかけを差し出された。苛立ちが伝わったのか、若干怯えた顔をしている。私は無視することにした。毅然と注意すべき役割を放棄した。小粋な私にとって、このような対応は稀である。それほど呆れてしまった。親の代わりに言ってやることもないと。

彼女たちはお茶も代わる代わるに飲んだ。ゴミをビニール袋に入れて、スポーツバッグの中に突っ込むと、私よりも先に立ち上がった。去り際にぺこりと頭を下げられた。遠ざかる背中の向こう側では、早くも小糠雨が降っていた。

そこから二駅が過ぎて、ズボンのポケットの中に手を入れた。財布がないことに気づいた。すられたのか!?と、勢い良く立ち上がり、前の駅で乗ってきた客を驚かせた。すべてのポケットを確認して辺りを見回す。網棚の上に黒い鞄がちょこんと置いてある。自分の鞄である。はっとしてその中を見ると、傘と見舞いの品だけではない。財布も、売店で買ったサンドイッチとお茶も、うっかり入れてある。私は笑うしかなかった。恥ずかしく思った。なんて視野の狭い男だろうと。

降車する駅に近づき、車窓を流れる景色も減速した。ドア付近に立って眺めていると、黄色い花が線路沿いに咲き揃っていた。雨に濡れながら。些か野暮ったく笑う山吹である。私はこの色をしっかり記憶に留めた。

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【畑野 慶 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。そこでの経験が、表現することの探求に発展し、言葉の美について考えるようになる。言霊学の第一人者である七沢代表との出会いは、運命的に前述の劇団を通じてのものであり、自然と代表から教えを受けるようになる。現在、neten株式会社所属。

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