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夏目漱石著 『 草枕 』 にみる余白の言語化作用

執筆:ラボラトリオ研究員 七沢 嶺


文学者でもない素人の私がこの場で小説について述べることは衒学的と思われてしまうかもしれない。しかし、俳句や短歌好きの私が人生で五本の指に入るほどに感銘をうけた小説「草枕」について、一体どこに心動いたかを述べることに多少なりとも意義はあるのではないかと僅かなうぬぼれを抱いている。読者にとって、これから述べることに何ら普遍的な学びがなかったのであれば只々謝るより他にない。それでも、その危うい橋を渡ってくださる方がいるならば心より感謝申し上げたい。

夏目漱石著『草枕』は、「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ―」で始まる小説である。当時の文壇において、挑戦的な小説であるといわれており、私の所感としても確かに毛色の異なる印象である。シェイクスピアの悲劇のように、いわゆるあらすじに乱高下のある類ではない。しかし「ない」と断言すると誤りかもしれず、ありそうにみせて「ない」というのが適切である。あえて話の筋を述べるとすると、俳句を趣味とする画家の男性が世を憂いて田舎の温泉宿へ泊まるというだけである。終わり方も読者の善意―感動したいという「期待」を見事に「裏切る」ものである。しかし、それは「草枕」に底流する主人公の芸術観に内在する「非人情」に裏打ちされるものであって、賢明な読者であれば「裏切られた」とは感じないだろう。芸術と近代化する社会はなかなか相容れる関係になく、その「非人情」を痛烈に批判する夏目漱石氏の強い意志が垣間見える。

本作の魅力は筆者の意志が投影された「心理描写」と「風景描写」にあると私は感じている。川端康成著『雪国』と「俳句的」という点において通底しているのではないかと考えている。それは、『雪国』において省略が効いている点や(勿論『雪国』をその一言で片付けることはできないが)、「草枕」において一節の独立性(聖書のようにどこかの一文を引用してもそれのみで成立しうる)が認められる点にある。但し「草枕」において、省略による言外の余韻はなく、余白がおおよそ言語化されている点は以下に述べたい。

散文は短詩型文学と異なり描写は無限に可能である。つまり、とある場面の描写に何文字つかっても構わないのである。「草枕」では、風呂の湯気を三百字もつかい表現している。池の水草は二百字である。一般的には見過ごす、もしくは三文字程度で済ましてしまうような些細なことを詩的に豊かな表現がなされているのである。俳句という文学における「余白」を過不足なく言語化しているのである。俳句鑑賞において、達人たちが「良い」「響いている」と評する部分の言語化ということである。たとえば、椿が池にぱらぱら落ちていく様のどこが「良い」のかといった点が言語化されているのである。つまり、俳句好きの私にとって都合のよい言い方をすると、小説「草枕」は俳句の学習になるのである。しかも、筆者の芸術観や死生観も込められており、それが的を得ている。普遍性がある。俳句に造詣が深く多くの名句をのこしている氏だからこそ書ける小説なのだと考えている。

最後に、小説「草枕」のどの部分が良いのかを具体的に引用して結論としたい。引用部は、私の独断と偏見である。いずれも主人公視点の描写である。それぞれに私の感想を付することは差し控える。なぜなら、これから「草枕」を読まれる方々の実直な感性を曇らせてはいけないと考えたからである。文語調の難解さがあるが、少しでも美しい雰囲気を感じ取っていただけたら幸いである。

われ知らず布団をすり抜けると共にさらりと障子を開けた。途端に自分の膝から下が斜めに月の光りを浴びる。寝巻の上にも木の影が揺れながら落ちた。(夏目漱石著『草枕』より)
自然と凹む二畳ばかりの岩のなかに春の水がいつともなく、たまって静かに山桜の影をひたしている。二株三株の熊笹が岩の角を彩る、向うに枸杞とも見える生垣があって、外は浜から、岡へ上る岨道か時々人声が聞える。往来の向うはだらだらと南下がりに蜜柑を植えて、谷の窮まる所にまた大きな竹藪が、白く光る。(夏目漱石著『草枕』より)
様々の憐れはあるが、春の夜の温泉の曇りばかりは、浴するものの肌を、柔らかにつつんで、古き世の男かと、われを疑わしむる。眼に写るものの見えぬほど、濃くまつわりはせぬが、薄絹を一重破れば、何の苦もなく、下界の人と、己れを見出すように、浅きものではない。一重破り、二重破り、幾重を破り尽すともこの煙りから出す事はならぬ顔に、四方よりわれ一人を、温かき虹の中に埋め去る。酒に酔うと云う言葉はあるが、煙りに酔うと云う語句を耳にした事がない。あるとすれば、霧には無論使えぬ、霞には少し強過ぎる。ただこの靄に、春宵の二字を冠したるとき、始めて妥当なるを覚える。
余は湯槽のふちに仰向けの頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着の栓張をはずす。どうともせよと、湯泉のなかで、湯泉と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。(夏目漱石著「草枕」より)
底には細長い水草が、往生して沈んでいる。余は往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。岡の薄なら靡く事を知っている。藻の草ならば誘う波の情けを待つ。百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は、動くべきすべての姿勢を調えて、朝な夕なに、弄らるる期を、待ち暮らし、待ち明かし、幾代の思を茎の先に籠めながら、今に至るまでついに動き得ずに、また死に切れずに、生きているらしい。(夏目漱石著『草枕』より)
見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩れるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未練のないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。ああやって落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた。花が静かに浮いている辺は今でも少々赤いような気がする。また落ちた。地の上へ落ちたのか、水の上へ落ちたのか、区別がつかぬくらい静かに浮く。また落ちる。あれが沈む事があるだろうかと思う。年々落ち尽す幾万輪の椿は、水につかって、色が溶け出して、腐って泥になって、ようやく底に沈むのかしらん。幾千年の後にはこの古池が、人の知らぬ間に、落ちた椿のために、埋もれて、元の平地に戻るかも知れぬ。また一つ大きいのが血を塗った、人魂のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。(夏目漱石著『草枕』より)


以下は主人公を通した筆者夏目漱石氏の芸術論である。

天然にあれ、人事にあれ、衆俗の辟易して近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数の琳琅を見、無上の宝璐を知る。俗にこれを名づけて美化と云う。その実は美化でも何でもない。燦爛たる彩光は、炳乎として昔から現象世界に実在している。ただ一翳眼に在って空花乱墜するが故に、俗累の覊絏牢として絶たちがたきが故に、栄辱得喪のわれに逼る事、念々切なるが故に、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。(夏目漱石著『草枕』より)
いわゆる楽は物に着するより起るが故に、あらゆる苦しみを含む。ただ詩人と画客なるものあって、飽くまでこの待対世界の精華を嚼んで、徹骨徹髄の清きを知る。霞を餐し、露を嚥み、紫を品し、紅を評して、死に至って悔いぬ。彼らの楽は物に着するのではない。同化してその物になるのである。その物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は茫々たる大地を極めても見出し得ぬ。自在に泥団を放下して、破笠裏に無限の青嵐を盛る。いたずらにこの境遇を拈出するのは、敢て市井の銅臭児の鬼嚇して、好んで高く標置するがためではない。ただ這裏の福音を述べて、縁ある衆生を麾くのみである。有体に云えば詩境と云い、画界と云うも皆人々具足の道である。春秋に指を折り尽して、白頭に呻吟するの徒といえども、一生を回顧して、閲歴の波動を順次に点検し来るとき、かつては微光の臭骸に洩れて、吾を忘れし、拍手の興を喚び起す事が出来よう。(夏目漱石著『草枕』より) 


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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。

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