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国体と私

執筆:ラボラトリオ研究員  七沢 嶺

紺碧の海に囲まれた小さな国がある。言葉により国は興り、神代より先祖代々、謙譲であるが卑屈に堕することなきその生き方は、国体という強靭な精神を生み出した。それは、覚悟、威厳、誇りといった国の形而上における支柱である。

私は、国の形而下なる経済や外交を否定はしない。その理由は、それらの物質的な恩恵は我々に文化発展の余力や時間を与え、結果的に形而上なる国体に寄与する一面にある。但し、それのみに邁進するのであれば、国は「発展」しても、「繁栄」はしないだろう。本心を偽った行動はいついかなるときでも正義ではない。取り繕った言葉から生まれた行動は弱い。真実の言葉から生まれた行動は強い。

歴史という記録は、新たな学説により、しばしば書き換えられる。それでは、何を信じるかといえば、今この瞬間を生きている人である。今を生きる人は、神代より連綿と続く連続性のなかのひとりである。その芥子粒なような「私」が、天壌無窮、万世一系に継承される精神を感得するとき、今を生きるということの一切を肯定できるのである。その自覚なくして、前に進むことはできない。

私は母国を大切に思っている。愛国心というと、あの人は右翼ではないか、古くさい考え方ではないか、と思われることもある。しかし、愛国心とナショナリズムは似て非なるものであり、多くの人は両者を混同しているように思える。グローバリズムを推し進める流れは大変よいことであるが、それは母国の精神を捨てること・忘れることを意味しない。それでも、無国籍であると宣言し、「地球人」として生きるのならばそれは一向に構わない。

ただし、もし自由と放恣を履き違えているのならば、その道は危ういものになるだろう。個人は国家に還元され、我々の自由とは、集団としての自由であり、ひとつの国家の一員としての自由である。法に触れなければ、他人に迷惑をかけなければ何をしても構わないというような都合の良い解釈は放恣に他ならない。個とは常に集団に依存するものであり、純然たる個というものは存在しない。

私の主張は、特定の国や民族が他よりも優れているとか、国体という精神を誇らしげに掲げるべきだということではない。国の形而上における支柱は、「強国」によるいかなる「安全保障」よりも強固であり、我々の未来を保証するものである。各国は純然たる文化により「主張」すべきである。私は、一編の詩が一塊の金に勝ることを知っている。一冊の本が一梃の銃に勝ることを知っている。

以上は私の根拠のない感想に過ぎず、自身の気合いを述べたに過ぎないかもしれない。しかし、それでも私が声高らかに宣言できるのは、人の良心と言葉の力を信じているからである。

「気高き精神を己の心に突き立てよ。」


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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。


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